The woman at two p.m.





 今日は水曜日だ。パンネロは自分でもおかしいと思うほどすっきりと目覚めた。ヴァンはまだ寝たままだった。大口を開けてわずかにいびきをかく間抜けな寝顔を見下ろす。

 数日前バルフレアに言われたことを思い出す。気づかないふりをしていた自分の本心を思い出す。自分はヴァンに頼っている。そして頼られている自信もある。だが、彼が頼ってくるのはパンネロが彼を頼っているからだ。彼は無意識にパンネロが自分から離れられないことを理解している。だから安心して彼女に頼る。現状のこの依存関係は表立ってはヴァンが原因のように見えるがその実パンネロが元々の種だ。ヴァンの隣で彼を支え世話することに自分の価値を見出してしまった彼女は、彼の自立の弊害となった。まるで子離れできない親のようだ、自分は。パンネロはため息をつき、しかし彼に出会う前の、どこか空虚なつめたい日常にはもどりたくない。

「…ヴァン」

ちいさく呼びかけても、彼はまだ眠りから覚めなかった。

 今のままではだめだ。自分たちはもしかしたらもういっしょにいるべきではないのかもしれない。それは徐々に確信に近づいていき、しかし否定したがる自分も存在した。ヴァンが自分を頼ってくれて、それに応えることによって生じる暖かいなにかを失えない。自分はちゃんと彼のことがすきだ、パンネロは思わず自分に言い聞かせてしまう。
 バルフレアという男に痛いところを突かれてから、パンネロの精神は懊悩の渦にのまれ気味だった。しかしこれは悩まなくてはならないことだ。しかし、いくら考えても自分がどうしたいのかどうなりたいのかわからない。なにが正しくてどうして今の状況を間違いだと感じるのかも。答えの見えない迷宮はパンネロを追い込み、胸の奥底からいかんともしがたいとげとげしい物体が顔をのぞかせようとする。パンネロのきらいな感覚だ。誰か助けてほしい、誰か。

 そう思ったとき思い出すのは、必ずあの人だった。

 恐ろしく妙な話だ。彼女のことを思い出すと、パンネロの脳内の霧はあっけないほど容易に引き下がっていく。他のことはまるでどうでもよくなりそうになる。パンネロは首をふる。こんなことではだめだ。しかし一度思いついてしまうとパンネロはあの人のことを考えるのをなかなかやめられない。しかも今日は水曜日なのだ。今は他のことを考えなくてはいけないのに、その事実はパンネロを浮き足立たせようとする。
 思考が欲にのまれそうになるのを阻止しようと立ち上がり、パンネロは彼を起こさずに家を出た。部屋の鍵を閉めていると隣の部屋の扉が開く気配がして、急いで立ち去った。隣のあのサラリーマン風の中年男に会うのは微妙に気まずい。



「今日はいやに機嫌がいいじゃない」
「え…、そうですか?」

図星だった。隣を見ると、アーシェはパソコンの画面に目を向けたままだ。

「気持ち悪いわよ」
「…気持ち悪いって」

パンネロも自分のデスクのパソコンに目をもどしながら、アーシェは歯に衣を着せるという技を覚えるべきだ、と思った。
 しかし驚いた。気づかれていた。確かにパンネロはそわそわしていた。だって、今日は水曜日なのだ。それにしたって周りの人間に気づかれるほど露骨だったとは。急に恥ずかしくなる。
 実際気づいていたのはアーシェだけだ。彼女は彼女なりにパンネロを心配しているのだ。パンネロが最近殊に暗い思考にのめりこみ気味になっいることにももちろん気づいている。そしてそれが水曜日に薄れることも。

「まさか、あの作家に会うから機嫌がいいってわけじゃないでしょうね」
「へ?」

 午後、壁にかけてあるホワイトボードの自分の欄に外出中の印をつけ、パンネロが彼女の担当する作家の原稿を取りにいこうと出ていくところに声をかける。パンネロは素っ頓狂な声を上げた。あの作家というのはもちろん彼女が今から原稿を取りにいく男のことだ。なぜパンネロが水曜日はすこし元気を取りもどすのかをアーシェなりに考えてみると、先のような答えが出たわけである。

「ありえないです」

パンネロは即答でアーシェの期待通りの返事を返す。確かにそんなはずなかった。彼は中年太りの所帯持ちだ。パンネロもさすがにそんなのに会うのが嬉しくてるんるん気分なわけがない。しかしアーシェはそれ以外の予想を立てることができなかったのだ。

「あらそう、やっとあの駄目男の代わりを見つけたのかと思ったのに」

 多少は心配していたが別にそれほど気にならなかったのでそれ以上聞かずにそう言ったら、パンネロはなんとも言えない顔をした。実はパンネロが図星をさされた気になっていたのを、アーシェは知るよしもない。



 本屋は会社のすぐそばだ。いつもどおり思わず早く先に行こうとする足を落ち着かせるのに必死になる。なぜここまで気が急くのかわからなかった。最近の自分は自分で理解不能だ。しかし本当は、それすらもわからないふりをして実際は頭のどこかで理解しているのかもしれない。パンネロは最近自分に対して疑心を抱かずにはいられないのだ。そしてそれは思いのほかつらい。
 などと脳内をぐるぐるしていると、いつの間にか本屋のすぐそばまで来ていた。急速に体温が上がった気がする。さりげなさを装いながら店内を横目で見ながら通り過ぎようとした。しかし。

「…え」

思わず声が出た。ちいさかったそれは幸いにも周りの通行人には届かなかったようだ。ところでなぜ彼女が声を上げたのかというと、くだんの彼女がいないのだ。パンネロは予想外のできごとに足を止める。彼女がいないのは初めてだった。パンネロが彼女の存在に気づいてから初めてのことだった。しばらく茫然と、店外からいつも彼女が立って雑誌かなにかに視線を落としているところを見つめた。当然のことながらいくら見てもいない。違うところで立ち読みしているのかと思っても、なぜか絶対いないと確信してしまう。パンネロの中にいつの間にかできていたセンサー的なものが反応しないのだ。パンネロは滑稽なほど動揺した。いないとは思っていなかった。そして、いないことによりこれほど自分がダメージを受けることも予想の範囲外だ。
 立ちつくしたまま何分経過しただろうか、けっこうあったような気がする。しかし電車に乗らなくてはいけないのに気づき時計を見て急いで駆けだした。乗り遅れたくはない。ちなみに、時間はそれほどすぎていなかった。