The woman at two p.m.





 パンネロは電車に揺られていた。他にほとんど乗客のいない車内は、どこかむっとする熱気を感じた。自分の頭の中もむっとしている、とパンネロは思った。
 彼女は現在深い反省をしていた。いくらなんでも見ず知らずの女性に自分は心酔しすぎている。いると思っていたところにいなかっただけで、なぜ出向いた先の作家に大丈夫かと声をかけられてしまうほど動揺し気分を曇らせているのか。そもそも、いったいなぜ自分はそこまで彼女を気にしてしまうのか。テレビの中のアイドルの類にならまだしも、本屋で立ち読みしてるお姉さんにいったいなにを求めていたのか。パンネロは、ひとしれずため息をつく。
 おおきな鉄の箱がゆっくりと速度をゆるめ、がくんと揺れて止まった。そこで視線を上げて、パンネロはやっと今電車が自分の降りるべき駅に停止していることに気づく。妙に焦って、パンネロは急いで立ち上がった。まだ閉じる気配のない扉をくぐりぬけ、パンネロはほっと息をついた。

「お嬢さん」

 改札のほうへ向かおうとしたところで、背後から声がした。聞き覚えのない女性の低くゆるやかな声質で、パンネロは自分に向けられたものではないかもしれないと思ったが反射的にふりむいた。すると目の前に厚みのあるおおきな封筒を差し出されていた。どうやら本当に自分に向けられた呼びかけだったようだ。

「これ、あなたのでしょう?」

差し出されていたそれは確かにパンネロのもので、しかもかなり重要なものであった。パンネロはあっと声を上げ、あわててそれを受け取った。

「す、すみません、あたしのです、これ」

それは今さっき例の作家から受け取ったばかりの原稿だった。彼は今時珍しく手書きで原稿を仕上げる人間だった。どうやら急いで降りたせいで車内に忘れてきていたらしい。なんという失態だろうか。パンネロは自分の過失に寒気を感じた。

「ああ、ありがとうございます、これ忘れたままだったらどうなってたか…」

もし忘れたままだったら本当にどうなっていたか。手書きということは今パンネロが持っているものが唯一無二の原稿であり、なくしてしまった場合また一から書き直さなくてはいけないわけで、まさかそんなことを作家の先生にしてくれと言えるわけがなく、いや本当によかった、とほおっとため息をつき、ありがとうございます、ともう一度礼を述べたところでパンネロはやっと忘れ物を届けてくれた恩人の顔を見上げたわけである。
 が、そこにあったのは実に信じがたい状況であり、パンネロは不躾にもその人物の顔を凝視した状態でかたまった。なぜかというと、そこで、どういたしましてと微笑しているのは、見紛うはずもなくどう見たっていつもパンネロが盗み見ており先程までも深く考えさせていただいていたくだんの彼女のものだったからである。

「うそ…」

無意識に呟くと、彼女がなにが?とでも言いたげに首をかしげるのが見えた。パンネロははっとして、焦って首をふった。

「あ、えっと、なんでもないです、ええと、ほんとにありがとうございましたっ」

パンネロはなぜか急に襲ってきた羞恥心と混乱のあまりきびすを返してその場を立ち去ろうとした。だって、あまりに唐突で予想外でありえないことだ、まさか、あの女性が目の前にいるなんて。しかしパンネロの逃亡は驚きにも彼女がパンネロのひじをちょいとつかむことによりあっさりと阻止された。パンネロはさらなる予想外の彼女の行動に目を見開いて彼女のほうに顔を向け直す。そして、微笑をたたえた彼女の口から出てきた言葉はそれ以上に予想外のものだった。

「時間があれば、これからお茶でも。ね?」