The woman at two p.m.
パンネロはおずおずとインタフォンを押す。正直この家の主には似つかわしくない質素な一軒家。まるで子供の秘密基地のような街外れにある古い家。バルフレアはそこに隠れるように住んでいる。いったい彼はなにから逃げているのか。
出てこない。パンネロはもう一度インタフォンを押した。途端、がちゃ、と鍵が開く音がして扉が開く。一回鳴らせばわかるっていつも言ってるだろうが。早口に不機嫌そうに言いながら出てきた男は、パンネロを見て瞬いた。
「おや、今日はお嬢さんかい。いつもの気の強いスピッツはどうした」
「…アーシェさんは、今日ちょっと忙しくて。あたしが代理できました」
バルフレアはたまにアーシェをスピッツと呼ぶ。理由はわからない。意味もわからない。パンネロはアーシェがスピッツのように見えたことは一度だってなかった。そしてアーシェはその呼び名を極端にきらう。多分こちらには特に理由はない。ただなんとなく気に食わないのだ。
「ところで、今日締め切りの小説、できてますか?」
「ああもちろん。どうぞ」
バルフレアは親指で奥を指して引っ込んでいく。パンネロは一瞬戸惑い、やむなく彼につづいた。
「ほらよ」
「ありがとうございます。お疲れさまです」
眼鏡をはずしながら、コンパクトディスクを差し出す。パンネロは受け取り、透明なケースの中のディスクを見た。
「今回のはまあまあのできだな。つらい恋に苦しむふりしてる女どもにはバカ受けだろうぜ」
皮肉な笑みを浮かべて、バルフレアはパンネロの手の中のケースの表面を爪で弾いた。軽く無機質な音がした。おそらくそれはこの作品に対する彼の思いを表している。彼の自分の作品に対する思いは、いつも軽々しく薄っぺらかった。
パンネロはバルフレアが苦手だ。それは彼の皮肉屋な性格に加え、彼の作品によるところがおおきい。彼のつづる文章は、まるで女性が手がけたもののように繊細だった。女性の内面を女性のように読み取り表現している。それは恐らく本当の女性によるものより鋭く正確だった。まさかこれは自分をモデルにしているのではないかと思える程身近な物語。きっとパンネロが覚えるその感想は、世の女性全員が感じるものだ。
それだけリアリティにあふれる彼の小説は、まるで彼からの女というものに対してのアンチテーゼだった。パンネロにはそう感じられた。作家本人に出会う前からそう思っていたのが、実際会って話してみてさらに確信した。そして確信すればするほどパンネロは彼が苦手になった。見透かされそうなのだ、自分とヴァンのことを。
「ところで、次の作品だが」
唐突に響いた彼の声は、思いもよらないことを言った。バルフレアは、どか、とソファに腰をおろした。
「次の作品?」
「ああ、もうプロットはできてる」
驚いた。彼はひとつの作品をしあげてからすくなくとも一ヶ月は執筆活動を停止する。そしていつの間にかいなくなり、いつの間にかもどってきたと思ったら、いつの間にか小説を書いている。彼のそういうところは、パンネロには幽霊のように不気味に見えた。
「…早いですね、今回」
「まあな。それというのも、モデルがいてね」
また驚きだった。彼は決してモデルに頼らない。それなのに現実をそのまま模写したかのような話をつくるのだ。その彼がモデル。いったいなんの心変わりだろうか。
「お嬢さんにいちばん先に教えてやろう。なに、たいしたことはない。どこにでもあるB級の恋愛小説さ」
にや、とバルフレアが笑う。寒気がした。嫌な予感がするのを気のせいだと思いたい。
「主人公は、うん、20代後半の独身女だ。長年付き合ってきた男と暮らしているんだが、今の状態はそろそろ潮時なんじゃないかと悩んでいる。男は無職で夢追い人、しかし女は踏ん切りがつかない。現状を崩すのが恐い。どうして恐いのかわからない。なぜなら彼女は、男に頼られているつもりでその実頼っているのは自分だと気づいていないから…」
バルフレアが軽快にそこまで言ったところで、パンネロは手に持っていたプラスティックのケースを床に滑り落とした。かしゃん、という音が響き衝撃で開いたケースからディスクが飛び出す。
「…おいおい、俺の作品は大事に扱ってくれないか」
不機嫌な声、しかし口元には笑みをたたえて彼は言った。しかしパンネロは動けない。それを面白そうにひとしきりながめた後、彼は床に転がったディスクを拾おうと腰をかがめた。そこでパンネロは我に返り、彼より先にそれを拾う。
「すみません、ぼおっとしてて」
動揺を隠すように早口で言う。バルフレアは肩をすくめる。
「次の作品の話は、あたしじゃなくてあなたの担当者としてください」
それじゃ、と言い残しパンネロは彼の隠れ家から逃げ出した。ものすごい恐怖だった。まるですべてを見透かされている。自分の心を見たかのように言い当てられた。アーシェの前では、なぜ彼といっしょにいるのかわからないふりをしていた。しかし本当は、心の奥底では当の昔に理解していた。依存しているのだ、自分を必要としてくれているはずの彼に。それでやっと自分の居場所を暖かいと感じられるのだ。それを、知らないふりをしていた自分の本性を、卵を握りつぶすかように容易にあっさり見破られた。
彼には、もう二度と会いたくないと思った。
前
次