The woman at two p.m.
「最近疲れてない?あなた」
「え…そうですか?」
さば味噌をつついていると、唐突に目前に座るパンネロの先輩であるアーシェに言われた。
「そんなこともないですよ」
へら、とした声で返すが、アーシェの問いは正しかった。確かに疲れている。理由は、わかっているけどそのことについて考えるのは嫌だ。
「あ、でも、今朝近所のおじさんとちょっといろいろあって、変な疲れは感じましたけど」
本当はアーシェがそんなことを訊いているのではないとはパンネロもわかっていた。その証拠に、アーシェはパンネロの的外れな話題にのってこない。仕方ないので他の話題をふってみる。
「そういえばせんぱい」
あそこの本屋さんにいつもいる女の人のこと知ってます?唐突に、と見せかけて実はパンネロの意識の表皮のすぐ裏側に常に息づいている例の彼女のことを思い出し、それについて言いかけて飲み込む。彼女のことは自分の中だけにとどめておきたい。話題にしようとしてはじめて気づいた自分の中にある欲に、パンネロは驚いた。その横で、呼びかけておいて言いあぐねいているパンネロに、アーシェがすこし首をかしげている。パンネロはごまかすように笑う。
「せんぱいって、しょうが焼きすきですよね」
「別に」
「え、でもいつもここにきたらそれ頼んでるじゃないですか」
ここ、というのは会社内ある食堂のことだ。パンネロとアーシェが昼食をとるのは大抵ここだ。パンネロは、多少は社内食堂でじゃなく他のオフィスレディのように同僚といっしょに素敵なランチをしてみたいと思っているが、編集の仕事をしていてはいつなにがあるかわからない。そのため昼だって気が抜けないのだ。だから注文してから出てくるまでが早いこの食堂に通うのが最適なのである。つまらないが、仕事のためならしょうがない。ちゃんと働かないとお給料もらえないし。
「すきだから頼んでるんじゃなくて、いちいちなににしようか考えるのが面倒くさいからこれしか食べないことにしてるのよ」
「だったら、日替わりランチとかにすればいいじゃないですか」
「きらいなものがでてきたりしたら嫌でしょ」
アーシェは、物事に対して異様に無関心だ。例えば食。今のように食べられればいいと思っている。パンネロはいろいろなものを食べたいし珍しい食べ物には惹かれる。しかしそれはアーシェに言わせればむだなことらしい。高いもの珍しいものを食べたからって人生が変わるわけじゃない。それなら安価でそこらにあるものを選んだほうが効率がいい。というのが彼女の持論だ。
しかしそれはパンネロとしては、失礼な話、そんな人生楽しいのか、と問いたくなる。だって食事というのは一日に3回、一年なら1095回、三年で3285回、50年となると…とにかく死ぬまでに数えきれないほどの食事を終了させなくてはならない。それなのにその途方もない数の同じ経験を毎回同じものになんてしたら、人間発狂でもしてしまうんじゃないだろうか。多分パンネロならする。ところがアーシェにしてみれば、そんなことを考えていること事態がむだなことなのだそうだ。人生なんていつの間にか終わりに近づいている。恐ろしく速く無意識下で進んでいく時間は、実は人間にそんな苦悩を抱える暇すら与えない。というのだ。
それは確かにそうかもしれなかった。パンネロは毎日この編集社に通勤しているわけだが、それは毎回同じ行動だ。しかしパンネロはそれで発狂なんてしていない。確かに多少の倦怠感は日々感じている。しかしそれだけなのだ。もうすでに何百と繰り返されたコピー用紙をぱらぱらしているかのような毎日を、思い返せばいとも簡単にあっさりあっというまに過ごしてきている。無意識下で進んでいく時間は、アーシェの言う通り恐ろしく速い。
そしてその恐ろしく速く進んでいく時間を、パンネロは実は大半をヴァンのために費やしてきている。そうしたいと思ってそうしてきたわけではない。いつの間にかそういう生活システムになってしまっていたのだ。頭を抱えたくなる。
「…やっぱりあたし疲れてます」
「見てればわかるわよ」
勝手に会話を中断してひとりで思考にのめりこんでおいて今度は唐突に呟いたパンネロに、アーシェにしては珍しく言葉を返す。しかしそれは普段の彼女通りそっけない。
「どうせ、またいっしょに住んでる男のことでしょ」
「……」
「いったいどうしてあんなのとずっといっしょにいられるのか見当もつかないわ」
アーシェはヴァンに会ったことはない。しかしパンネロの彼についての話はよく聞く。いや聞かされる。アーシェは愚痴というものを聞くのはきらいだったが、自分だっていつもこの後輩にけんかを売るような勢いであらゆるものに対する不満をぶちまけるべく本音を語っているのだから、アーシェも彼女のストレス解消に付き合わないと不公平というものだ。
「そんなせんぱい、あんなのって。あんなのって、…あんなのなんですよねえ」
パンネロはアーシェの言葉を否定すべく口を開く。会ったこともない人間にあんなの呼ばわりされるヴァンの名誉のために。しかし、彼は否定しようもないあんなのなのだ。
「あたし、あいつのことちゃんとすきなのかな…」
「すきじゃないならいっしょに暮らせないでしょ」
「でも、それも慣れっていうか、いちばん盛りあがってたときにいっしょに暮らし始めて、で、そのノリで今もいっしょにいるわけで、だから、すきじゃなくてもあいつとなら暮らせそうっていうか」
「じゃあ、すきじゃないってことにして、別れれば?さっさと」
「……」
「…別れたくないならすきなのよ」
ふたりは、パンネロと彼女の恋人との会話になると、必ず全く同じ会話をする。しかし飽き足らずパンネロはアーシェに呟きかけ、アーシェはそれに答える。恐らくこの間で彼についての話をしても意味がないのだ。しかしパンネロは呟く口を止める術を知らないしアーシェも彼女の呟きから始まるこの会話のうまいまとめ方を思いつかないでいる。
「ま、すこしでも別れたいと思えたら別れることね。あんなのと付き合っててもあなたにはひとかけらのメリットだってないもの」
あいかわらずあんなの呼ばわりのヴァン。しかしパンネロはもうそれを否定しようと試みることはなかった。
微妙に沈みかけた空気を払拭するかのように、けたたましく携帯電話が鳴った。アーシェはポケットからそれを取り出す。そして液晶に目をやった途端、彼女は顔をしかめた。
「はい、もしもし」
不機嫌そのものの顔とは裏腹に、高い声をつくって携帯電話に話しかける。パンネロはそれをながめながら味噌汁をすすった。
「…は?…はあ。…はい。はい。わかりました。はい。それでは後程」
ぷち、と電波での会話が断たれる。はあ、とアーシェは深いため息をついた。
「どなたですか?」
「…大先生よ」
大先生とは、この世界では超大御所、彼ににらまれればもうこの世界では生きていけないといわれる超人気のミステリー作家さまのことだ。アーシェは最近彼の担当に抜擢され、すでにそれをやめたがっていた。
「あいつ、わたしのこと小間使いかなんかと思ってるのかしら。いちいちくだらない用事で呼びつけやがって」
それというのも、作品はすばらしいがいかんせん作家本人の性格のほうが極度にひん曲がって超がつく程わがままなせいである。だから決してアーシェが短気すぎるわけではない。彼女にこらえ性がないのも確かだが。アーシェは、さめた味噌汁をひとくちすすり、立ち上がった。
「あれ、もう行くんですか?」
「ええ…早く行かないとうるさいのよあのくそじじい」
アーシェは言い残し、さっさと食堂を出て行った。パンネロは肩をすくめて見送り、さば味噌に箸を伸ばす。その時携帯電話が鳴った。アーシェだ。
「もしもしせんぱい?どうしたんですか?」
「実は午後一でバルフレア先生のところに原稿取りに行かなくちゃいけないの忘れてたの。わたしはあのわがままじじいのご機嫌取りに忙しいから、悪いんだけどあなた代わりに行ってきてくれない?おねがいね」
「え、うそせんぱ」
ぶち。アーシェは用件だけ言って勝手に会話を終了した。パンネロの返事を聞く前に。
「…バルフレア先生って」
パンネロは思わず呟き、彼のすかした笑みを思い出して顔を歪めた。
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