The woman at two p.m.





 朝は一日の始まりであり常にパンネロを追いつめる。朝というのは夢から現実へ覚める瞬間なのだ。パンネロは別に夢から覚めたくないわけではない。現実にもどるのが嫌なのだ。彼女の中では夢から覚めることと現実にもどることは同義ではない。しかし仮になにが違うのかの説明を求められても感覚的な次元過ぎて決して他人にわかってもらうことはできないと彼女は思っている。

 パンネロはため息をつき、スクランブルエッグを盛った皿を木製のテーブルの上に置く。珍しくパンネロより早く起きていた彼。

「ヴァン、朝ごはんできたよ」
「んー、サンキュ」

彼は、返事をしておいてパンネロに背を向けたままシャーペンを紙上に滑らせている。くたびれたスウェットを身につけ、寝癖でぼさぼさの頭をした、パンネロの恋人。

「ねー。さめちゃうんだけど」
「先食っててよ」
「……」

パンネロは再度ため息をつき、作りたての湯気を立てる黄色い卵に箸を伸ばす。これはヴァンのためにつくったものなのに。

「よっしゃできた!」

ヴァンが叫ぶ。パンネロはそれを見もせずに食事をつづける。

「なあ、できたできた。新曲できた!」
「はいはい」
「ちぇ、つれねえなあ。ちょっと聞いてよ」

ヴァンはギターを持ち出す。

「悪いけど今時間ないから、仕事から帰ってきてからね。てか、早くご飯食べてよ。出勤前に片付けたいから」
「……」

つめたい台詞に、ヴァンは不服そうに唇を尖らせ、しかし素直にパンネロに従った。

 ヴァンはミュージシャンを目指している。パンネロだって知っていた。しかしそろしろ目を覚ますのにちょうどいい頃合なのではないだろうか。彼は先日27歳の誕生日を迎えたのだ。そのプレゼントに、戯れに求人雑誌をヴァンに差し出した。もちろんちゃんとしたプレゼントもしてやったが。すると彼は、冗談きついよ、と笑ったのだ。それを見てなんともいえない気分になって、パンネロはもしかしたら案外と本気で彼にあの分厚い働き先のリストが掲載されている本を渡したのかもしれないと気づいた。なんてったって27歳。それで未だ無職で音楽で食べていけるようになることを夢見ているのだ。
 昔は楽しかった。付き合い始めの頃。彼と音楽を共有することは。何度もヴァンといっしょに路上で歌ったしヴァンのつくる曲に本気で感動した。しかしいつの間にか、自分だけが夢から覚めてしまったのだ。そしてパンネロが現実というものに視点をあわせてしまって数年、未だヴァンは夢の中で息をしている。彼はまだ少年だった。年老いた少年だった。パンネロはそんな自分の半身をうとましく思う反面うらやましかった。もしかしたら、こちらの方が真の本音なのかもしれない。

「ね、ひげ。そったら?」

やっと食卓に腰をおろしたヴァンの頬をつついて言った。

「ん?ひげ?」
「無精ひげ。全然外出ないから伸ばしっぱなしになっちゃうのよ」
「ん…ああほんとだ。じょりじょり」

あはは、とヴァンは頬をなでながら笑った。ヴァンは鈍い。パンネロは極たまに、会話にさりげなく非難めいた台詞をこめる。しかしヴァンは全く気づかない。パンネロは気づいてほしいが、きっと本当に気づかれた時は途方もなく自分のしたことを後悔するだろう。彼女は自分が意気地なしだと知っている。

「新曲、どんな曲なの?」
「へへ、かっこいいぜ。青春のほとばしりって感じ?」

27歳で青春のほとばしりがかけるのだろうか。ヴァンならできる。彼はきっと死ぬまで青春の中にいる。出会った頃と全く変わらない部分を、彼はたくさん持っている。

「ふうん。あ、忘れてた。そういえばさ、夜中にギター弾くのやめてよ、近所から苦情くるから」
「え、苦情くんの?知らんかった」
「くるの。ほら、こないだ隣に越してきた人。ひとり暮らしのサラリーマンっぽい人いるじゃん」
「あーあの見るからに奥さんに逃げられましたーて感じの」
「そうそう。あの人が、ヴァンがいない時うちにきて、こんな壁の薄いアパートなんだから夜は静かにしたほうがいいって」
「げー、おれあの人苦手なんだよな。会ったら文句言われそう」
「でもあの人多分いい人だよ」
「なんで」
「だって、文句言いにきたっていうか、うるさくて周りの人に迷惑をかけたら君たちが嫌な目で見られるからって。どっちかっていうとアドバイスっぽいこと言ってくれたし」
「へっ、そんなのおおきなお世話だっての」
「でもあの人の言ってることは正しいから、夜間演奏は禁止」
「うーはいはい」

 パンネロとヴァンは小学校の時からの仲だ。当時パンネロ一家がヴァンの家の隣に引越してきたのがきっかけだった。小学校の時はよくいっしょに遊んだが、中学校にあがると、ふたりでいるとからかわれるようになった。苦痛、という程ではなかったが、やはり気持ちのいいものではなかったので、どちらともなくいっしょにいるのを避けるようになった。だから中学校ではパンネロとヴァンの共通の思い出はほぼない。
 高校は別々だった。もうそのころにはパンネロの中からヴァンという存在は消えかけていた。そしてそれはヴァンも同じだった。しかし出会いというのは忘れたころにやってくる。パンネロは、大学に入学して2、3年経った頃、路上でギターを弾き聴く人もいないのに楽しそうに歌を歌うヴァンを見つける。それが現状のきっかけだったのだ。お互いに再会を喜んだ。昔をなつかしみお互いの近況を言い合う会話は居酒屋で酒を飲み交わしながらつづいた。
 そして朝。気づけばパンネロの部屋。隣には眠りこける素裸の幼なじみ。
 よくある話だった。おそらく、ふたりはお互いに初恋の相手だったのだ。再会は、その頃のもはや幻想と呼んでも差し支えない薄い感情をにわかに呼び覚ましてしまった。そしてその時のある種の暗示は、未だふたりをとらえたまま放さない。
 パンネロは、今こうしていっしょにいることをどこか義務のように感じている己に気づいている。しかしそれをごまかし、彼女はヴァンの隣に座りつづける。6年近くよくもまあつづいているものだ。パンネロは自嘲気味に笑い、しかしそのどこか歪んだ笑みはヴァンの目には穏やかな微笑にうつるのだった。



 食器を洗い、どうせ今日もすることもなく家にこもっているであろうヴァンを残しパンネロは部屋を出る。ごみ出しも忘れずに。

「おや、おはようございます」

ごみ置き場に袋を置いたところで背後から声をかけられる。振り向くと、今さっきのヴァンとの会話の題材になっていた人物が立っていた。

「あ、おはようございます」

軽く頭を下げながら言うと、彼も会釈した。彼の両腕は数個のごみ袋で占領されていて、通勤用のものらしい鞄は脇に抱えられている。その大荷物を見ているパンネロの視線に気づいたのか、彼はごみ袋を掲げた。

「いやはや、一度出し忘れると溜まりますね」

大量のそれを、彼はパンネロが置いたものの横に置く。彼はスーツ姿だった。がっちりとした体型で顔もなかなか精悍ではあるが、どこかぼやけた雰囲気を持っている男だった。
 パンネロは彼がなんの仕事をしているか知らない。名前すらも。しかし彼がある種おせっかいないい人でことはわかる。なぜなら、うるさかったなら文句を言えばいいのに、そんな素振りはみじんも見せずにアドバイスまでしてくれたのだから。だからヴァンがなぜか苦手とする彼に、パンネロはなかなかの好印象を持っていた。しかしそれ以上のことは知らないし興味もない。
 現代の日本では、同じアパートの隣同士だからといってその人の人となりを解説できるものはきっとすくない。パンネロ然り。近所付き合いが年々希薄になっていくこの国は、パンネロにとってなかなか快適だった。いちいち周りに住む人間に必要以上の気遣いをせずにすむ。

「それでは」

彼はまた会釈をして、どうやら仕事に向かうらしい足を進めた。自分も頭を下げて見送ろうとしてそこで気づく。

「あ、あの」
「なにか?」

思わず呼び止めると、微笑しながら振り返った中年の男。非常に言い出しにくい。

「…今日は、燃えるごみの日じゃなくて、燃えないごみの日です」
「え」

パンネロがおずおず指差す先には、先ほどまで男がつかんでいた袋たち。それらには、周りに置かれた袋とは違う色の違う文字が記されていた。

「……」
「……」

微妙な空気が漂う。気づかなければよかった。気づいても、わざわざ教えなければよかった。でも、教えなかったら彼がかわいそうだったのだ。でもやっぱり、わざわざ言わなければよかった。
 すみません、と恥ずかしそうに袋を回収し去っていく男を見て、パンネロは朝から妙な疲労を感じた。