sound
夏といえば麦茶なのだ。
あたしは汗をかく透明なコップをわきにおいて、テーブル(というよりちゃぶ台)のうえに夏休みの宿題をひろげた。ついでに言えば、夏といえば夏休み、夏休みといえば膨大な量の課題、課題といえば7月中におわらせるにかぎるのである。
たたみのうえにあぐらをかいてノートにシャーペンをはしらせた。かりかりかりかり。夏はすきだ。縁側からはいってくる風はとても気持ちがいいし、風鈴の音はきれいだし、なにより。
「……あついなあ」
夏といえば麦茶。麦茶といえば。……
「こちらが今日からお世話になるフラン先生よ」
おかあさんがそう言ってつれてきたのは背が高くてきれいですこし恐いひとだった。先生はおとうさんのよくわからないけど知り合いらしくて、夏休みのあいだだけあたしの家庭教師をたのんだんだって前日におとうさんが言っていた。
あたしはとても緊張した。たしか四五年前、小学校6年生のときの話だと思うんだけど、もしかしたら5年生のときかもしれない。
先生はあまりしゃべらなかった。あたしが質問すればちゃんとこたえてくれたしとてもわかりやすい説明をしてくれたけど、余談的な話はまったくと言っていいくらいしなかった。あたしが話をふればそれなりにのってくれたけど、自分から話題を提供してくることはなかった。無口で、すこし恐いひとだった。
先生は麦茶をのまない。おかあさんが氷いりの麦茶を授業のたびだしてくれるんだけど、先生はそれには口をつけない。対照的にあたしはすぐにのみほしてしまって、いっぱいにそそがれたままの先生のコップをいつもひそやかに見ていた。でもちょうだいだなんて言わなかった。先生は麦茶がきらいなんですか、とたずねたら、いいえという簡潔な答えが返ってきた。じゃあどうしてのまないんだろう。あたしのその疑問は、先生がつぎの問題をやるよう指示したおかげでうもれた。
からん、とコップのなかの氷が音をたてる。いつもだった。はこばれてきてからそのままの先生の麦茶。だからあたしはそれをきくたびどきりとした。きくたび、先生がきているんだということをあらためて自覚させられた。だからその音がなったら集中力がきれた。どきどきしてとなりにいる先生が急に近くに感じた。先生は原因には気づかなくてもあたしの集中力がきれたことはわかるみたいで、じゃあつぎはこれ、とべつの作業を指示してくれた。恐いけど、やさしいひとだった。
先生は、あたしをこどもあつかいしなかった。たしかそうだった。あんまりおぼえていないけど、どうしてそう思ったのかはわすれてしまったけど、先生はあたしをおとなのようにあつかった。あたしはそれがうれしかった。その話をすると、先生はめずらしくすこしおどろいた顔をした。
「そうね、そうかもしれないわ。でも、ただたんに私はこどものあつかい方っていうものをしらないだけ」
先生はそう言って、ちょっとさみしそうに笑って目をふせた。こういうのが影があるっていうんだろうか、とこどもながらに思った気がする。その表情にふかい意味があったのかそれとも全然意味なんて存在しなかったのかはわからないけど、それはとにかくきれいだった。あのときのあたしは、きっとみとれていたのだ。
「でも、あなたはこどもよ。こどもとしてあつかわれるのが当然」
だからかはしらないけど、そのことばにむきになった。あたしは先生のほうを見た。
「あたしは、こどもじゃないです」
「こどもよ」
「そんなことないもん」
小学生の分際で、あたしは自分はおとなだと主張した。ばかだなあと思う。でもこどもならではの無敵さってすばらしいとも思う。いまのあたしはもうそんな勇気も力もない。
先生はあきれたのか表情をけした。あたしは急に恐くなる。怒らせたんだろうか。
「……じゃあ」
先生がつぶやいた。と思ったら、先生は右手の親指と人差し指であたしのあごをつかんで自分のほうをむかせた。先生の指先はひんやりとつめたくて、麦茶をのどに流しこむときのことをあたしに思い出させた。
「じゃあ、おとなしかしないこと、してみる?」
先生はあたしの顔に自分の顔をよせる。こんなに近くで先生の顔を見るのははじめてだ。のんきにそう考えてから、きっと先生はあたしにキスするつもりなんだと思いついた。
先生は背が高くてきれいで無口ですこし恐くて、でもとてもやさしいひとだった。からん、と氷がなった。
「……あ」
まぬけな声がでた。自分のそれで我にかえる。あたしはそれをよけたのだった。先生の唇を。先生の右手はあたしのあごを思いのほか固定していなかった。あたしは呆然とした。そのすきに、先生はさっさとあたしから手をはなした。と思ったら、じゃあつぎは、と、あまりに自然に授業にもどった。あたしは、信じられないでいた。
気づいたらもう夏休みもおわりだった。その日が、先生とあった最後の日だった。
「……じゃあつぎは、ここからここまでやってみて。わからなかったら質問して」
あたしは、あの日先生が言ったことばを復唱した。一言一句こぼすことなく、抑揚のつかない感じまでおぼえている。ただし、この記憶が正しいかどうかは保証できないけど。
あのときよけなかったら、先生はどうしていたんだろうか。キスしてくれたんだろうか。それとも冗談よとはぐらかしたんだろうか。どうしてあんなことしようと思ったんだろうか。あたしは、先生のことがすきだったんだ。
「高校生に読書感想文なんて書かすなよなあ」
あたしは、ばかみたいにおおきなひとり言をつぶやいた。
いまでも夢想するのだ。もしかしたらまた先生にあえるかもしれない。急にとなりにひっこしてくるかもしれない。街で偶然ばったりなんてこともあるかもしれない。そんなときのために、あたしは幾とおりものシュミレーションをかさねる。ほんとはキスしてほしかったんだってつたえるために。
あたしは先生がすきだったんです。すきなんです先生。
からん。ひとくちもつけていない麦茶のなかの氷がなった。あのころといっしょの音であいかわらずで、ただしちがうのは先生がいないこと。あたしはそれをいっきにのみほした。いとも簡単にあっけなく。茶色かったコップは透明にもどる。これくらいに、麦茶をのみほすことくらいに、すべてが簡単にいけばいいのに。
「……」
あたしはくやしまぎれに、のこった氷をぜんぶかみくだいてやったのでした。
end
07/06/17 音