not reach
私は取り残されることに慣れている。私が誰かを取り残すことはない。常に私は取り残される側にまわるのだ。
「あたしのことは、忘れるのよ」
まるで子供に言い聞かせるかのようなその口調に、不思議なほどいとしさがあふれてきて出会ったころとは変わってしまったけど確実に彼女のものである掌をにぎると、彼女はうれしそうに目を閉じた。
彼女が忘れろと言った意味くらいわかっていた。でも私は死ぬまで彼女のことを覚えていられる気はしていたし事実今もまだ克明に彼女のすべてを思い出せる。色あせた部分はひとつもなくあのころのまま彼女は私の中に存在し私の胸をあいかわらず揺れ動かせてる。それでも、彼女が忘れろと言った意味くらいわかっていた。
私以外乗せるもののいなくなったシュトラールはどうしても寂しげに見えて、それが伝染するかのようにいつも私は狼狽する。私ひとりのためには重々しすぎて荘厳すぎるこのおおきな塊は決して私の目の前から消えてはくれないし自らそうすることはなおさらできないことだった。すがっているつもりはないがもしかしたらそうなのかもしれず、私はまさか自分がこんなことで精根を使い果たしそうになるとは森を出たとき予想すらしていなかった。覚悟をしていたつもりだった自分の浅はかさにため息が幾度ももれ止まりそうにない。結局私は世間知らずの愚か者で、なによりわかっていなかったのは自分のことだった。私は自分を過大評価も過小評価もしているつもりはなく、しかし最近目の前に現れる自分に対する疑問はいったい自分を過大小どちらに偏って見ていたせいで出現しはじめたものなのか。
これはヴィエラである、いやヴィエラであったものとして自然な思考回路なのかもしくはヒュムのような私には到底理解できないと思っていた不可解であるはずの感情の流れなのか、はたまたヴィエラでもヒュムでもないものの新しい境地なのか。私の意識はもっぱらその疑問の方向に向かいそれでも一生答えが見つかる気がせず、それはまるで途方もなく長い砂漠をいくような、ひざを折りそこでもう休みたくもういいだろうと自分に言い聞かせたくなるような、絶望に満ちた枯れた井戸のような無用感がある。それなのに私は自分の脳内の討論を止められない。苦しいはずなのに。
もしかしたら私は他のもっと苦しいことから逃げるためにそれから目をそらすためにそればかりに集中しているのかもしれない。恐らくそれが真理だ。どこか実感しきれないそれが、私の現状の正しい解釈なのだ。
「……そろそろ、隠居でもしようかしら」
重苦しいシュトラールの操縦桿を握りしめながら、そろそろくせになりそうなひとりごとを呟く。森の中のちいさな小屋にでも、もう腰をおろしてしまおうか。今はすでに新しい出会いを求める気もなくむしろ願い下げだとさえ思ってしまっているおかげでまるでどこであってもすぐに眠りにつけてしまうと思える。しかしそれは幻想で、私の道はまだつづく。途切れることを望むのは、彼女がよろこぶことではない。かといって、彼女のよろこぶことは今はもうわからない。昔はわかっている気になっていたのに、今はもうわからない。残酷かつ信じがたいこれが、彼女が忘れろと言った理由。かたくなに拒む私は彼女をよろこばせることができているのか。答えは雲の向こうでそこには私はたどり着けない。自由であるはずの空の中で、そこは私を受け入れない。
かつての操縦主を失い私に彼の代わりをさせている飛空挺はいつまで私を乗せて動いてくれるのか。それ以前に私はいつまで乗りつづけていられるのか。あきらめるのは簡単なのだ。それを彼が許してくれる気がするのは自分が弱っているからかもしれない。彼の、無色の死に際を思い出す。灯火が消えるかのような名残もない唐突な消滅は、彼女のものとは対照的だった。ゆるやかな感情の流出をともないながら旅立った彼女とは。私は、どちらが幸せな最期だったのかわからない。しかし唯一わかるのは、彼らの死を思い出すことにより私が感傷的になることだった。
くしくもシュトラールは広大な森の上空を飛び、私はそれを見下ろしかつての故郷を思い出す。もう捨てたはずのそれが平気で胸の奥から顔を出し私をなつかしさの渦の中に連れ込もうとする。感傷的な喪失感に見舞われかつすがりたいものがなくなった今は流れに逆らえそうにない。それでも泣くことだけは阻止した。涙は彼女のため以外に流さないと彼女と約束したのだ。一方的な指切りをあのとき彼女が認識していたかは知れないけれど。
「いつからこんなふうになったのかしらね」
覚悟していなかった。想像すらしていなかった。彼女のことは忘れないししかし忘れないことにより苦しいのも事実で、それでも私は彼女の忘れろという言葉を拒否しつづけている。自分で自分のしていることがわからない。本当はきっぱりと決別してしまうべきでそれが彼女のいちばんの願いだった。それでも私の中では拒否することの正しさがそれに勝り、自ら苦しみの中に身を投げ入れているのだ。そんなふうに私がなるなんて、覚悟していなかった、想像すらしていなかった。そして苦しみは、忘れたくない記憶を時がさらっていくことにより増長する。私ひとりきりの残りの道の上には苦しみしか存在しないらしい。
それでもよかった。むしろ、それがよかった。だって私は、後悔などしていないのだ。今はまだそう思えるだけ私は健全なのだ。しかしもしこれ以上彼女が危惧していた事態に陥りそうになるならば、私は私の真実を折り曲げるしかなさそうだ。それが彼女の望むことなら。
「でも、もうすこしあがかせてほしいものだわ」
本日何度目かわからないひとりごとを呟きぐっと操縦桿を押すと、私と同じく寂しさを募らせている飛空艇が励ましてくれているかのようにごうとうなった。
end
手を出すのはちょっと早いところでした お粗末さまです
ところでシュトラールに操縦桿ってあるんですか
07/02/08 とどきはしない