a wheedling child
パンネロは街中のちいさなつめたいベンチに腰掛けていた。目の前を流れていくひとびとを目で追っては元のほうに向き直りを繰り返す。街の中は止まらない。息をつくことがない。疲れるところだなあとパンネロは首をかしげた。街は休まなくて倒れたりしないのかな。以前フランにそう言って訝しげに見られたことを思い出す。パンネロは事物を擬人化して話すことが多く、フランはその感覚を理解できない。恐らく彼女は理解する気がないのだと憶測される。
気候は例年の今の時期に比べて暖冬だとは言え、冬は冬、たいへん寒い。パンネロはそんな中コートのえりを立て手袋をしていない指先をこすりあわせた。はあ、と肺にある息を指先にあてて、つめたさをごまかそうと試みる。でも気休めにもならない。それでもあきらめずもう一度息を吐き、白く染まる空気に気づく。また、はーっと息を吐く。今度はすこしあごを上げてたっぷりと目の前の大気に向かって。途端目前が白くにごり、一瞬にしてまた元にもどる。パンネロがおもちゃを見つけた子供のように目を輝かせて重ねて息を吐く。にごっては透け、パンネロが息を吐けばまたにごる。おもしろくて何度もくりかえしているうちに、ふと我に返る。なにをやっているのか、自分は。パンネロはひとりで恥ずかしくなり、うつむいて当初の目的のために指先を口元に近づけた。
それにしても、遅い。いつものこととはいえ、パンネロはすこし唇を尖らせた。こんな寒い日くらい時間どおりに来てほしい。パンネロはまた、過ぎていくひとごみをながめた。
フランが以前ひとごみは苦手だと言っていた。どうしてと問うと、めまいがするのよと言われた。
「めまい?」
「そう。ひとごみって、ひとかたまりに見えて実は人間ひとりひとりが別の目的を持ってひとごみを形成してるでしょう。だから見てたら、ひとりひとりが自分勝手に規則なく動くから目の前がくるくる入れ替わって、しかも自分がその中にいたりなんかしたら流れを肌で感じちゃうでしょう?だから気分が悪くなる。だからあんまりひとごみはすきじゃないのよ」
パンネロはフランが静かに言うのを聞きながら、繊細そうに見えて実はなかなか図太い彼女の意外な弱みを見つけて目を瞬かせたのだった。
めまいねえ。パンネロは先程のように流れるひとごみを目で追っては元のほうに向き直りを繰り返してみる。…めまい、ねえ。パンネロはフランの言うことはたまに意味不明なことがあると思い、そして実は極たまにフランもパンネロに対してそう感じているとは全く知らないでいる。
左から右に移動するひとごみを首が回るぎりぎりまで追いかけたところでくいと顔の向きを元のほうにもどすと、そちらの方向から待ちわびたひとかげが近づいてくるのが見えた。
「…フラン」
わざとらしいほどゆっくりと近づいてくる約束相手に、低く言ってやると、彼女は目を細めただけだった。
フランが約束に遅れてくるのは常だ。だいたい五分から十分過ぎないでフランがパンネロの前に現れることはない。断言できる。どうしてなの、と訊ねても、フランは妙にうれしそうに目を細めるばかりでなにも言わない。パンネロは不可解に感じつつも彼女を待つことがなぜかきらいでないのでもう遅れてこないでねとは言えない。これがふたりの自然なのだ。しかし、この灰色の空の今日くらいはもうすこし早く来てくれてもよかったかなあとは思った。
「今日はね、ちょっと寒かった」
「そう」
「うん」
フランが、あまりに自然な動きでパンネロの片手を自分の片手の中に収めた。ひんやりとしてはいるが確実にそこにある人肌に、パンネロは自分の吐息では満たされなかった欲求が溶けていくのを感じた。さっさと歩き出したフランに手を引かれるまま歩き、その勢いに任せて彼女の腕に身体を押しつける。そうすれば、もっとあたたかくなる気がしたのだ。
「そんなに寒かった?」
「ちょっと、寒かった」
「そう、ごめんなさいね」
パンネロは予想外の台詞にすこし目を見開き、思わずはるか頭上にあるフランの顔を見上げた。
「…珍しいね、謝るの」
「そう?」
だって、初めてじゃない。遅れてきて謝ったの。そう言う口調にあまりに驚きがにじみ出ていたのか、ふ、とフランは笑った。
「だって、寒かったんでしょう?」
「うん、寒かった、けど、でも」
なんか、変。なぜかわからないが急に照れてきて、パンネロはうつむいた。
フランは黙々と、しかしパンネロの歩幅に合わせて歩く。パンネロはいつもそんな彼女の隣で話したいことを話したり彼女の沈黙に付き合ったりしている。今日はどこにいくの、あたしは見たい映画があるんだけど、ホラーなんだけどね、あたしひとりで見れないから、付き合ってくれる?パンネロは今日は彼女に語りかけることを選んだ。反応は稀薄だが、フランはしっかりとそれに耳を傾けている。
「…ねえ、」
「なに?」
その証拠に、すこしまじめな声を向ければ、ちゃんと返してくれるのだ。パンネロは安心する。
「なんで、フランは約束の時間を守らないの?」
非難するつもりはみじんもなかった。ただ理由が知りたかった。いつも訊ねても返ってこない応答を、今日はどうしても言ってほしくなった。フランにもその心情は伝わっていたようで、別段気を悪くしたような素振りは見せない。その代わり、すこし視線をめぐらせた。
「そんな、たいした理由はないけど」
眉をすこし寄せ、珍しく表情を動かすフラン。そして驚きにも平生は決してこたえてくれる気のなかったパンネロの問いかけになんの気まぐれかフランはゆるやかに口を開こうとしている。真横に立たれるとはるか頭上に位置してしまうためすこしうかがいにくい彼女の顔色を、パンネロは一所懸命見上げた。
「…私を待っている間は」
先程の口調と変わらずゆるやかに、フランはそっと囁く。
「待っている間くらいはあなたは私のことだけ考えてくれるでしょう?」
その言葉はパンネロの全く予期していたものではなく(かといってどんな予想を立てていたかというと全く予測もできていなかった)、すいと唐突に見下ろされ瞳をとらえられて言われてパンネロは赤面するほかなかった。返答のための言葉がどうやっても出てこず、パンネロはどうしようもなくうつむく。頭上からは、腹立たしくも満足気なため息が降ってきた。
思い返せばフランを待っている間は確かに彼女のことばかり考えていた。それは確実に彼女の思惑通りだ。しかし、事実は本当はすこし違うのだ。彼女はそれに気づいていない。パンネロは、すこし勝った気になる。
パンネロは顔の赤みが引くのを待って、すこし顔を上げ、ちいさく、それでもフランには確実に届くはずの音量で言葉を発する。
「フランは、甘えん坊だね」
「あなたにだけよ」
からかうつもりで言っても、またこちらが恥ずかしくなるようなことを言われた。いったいどうしてさらさらとそんな台詞が臆面もなく並べ立てられるのか。パンネロは半分あきれて、また彼女を見上げる。目にうつったのは、若干楽しげに見える口元と、形のよいなめらかな右側の下顎骨だけだった。
それは確実に彼女の思惑通りだ。しかし、事実は本当はすこし違うのだ。彼女はそれに気づいていない。パンネロは、すこし勝った気になる。
――本当はね、あなたのことを待ってる間じゃなくても、あたしはあなたのことばかり考えてるのよ。
end
07/02/08 甘えん坊