思い出すのはあの夏の日、溶けるような暑い日差しはわたしの思考を奪っていた。悔しかった。悲しかった。それでも涙が出ないのは、わたしが泣きにくい体質だからなんだと思った。




HOMOZYGOTE





「あ、せんぱい」
「…いたの」

わたしはそっけなく言ったが、本当は気が気じゃなかった。いたら、いてくれたらいいと思っていたのだ。まさか、本当にいるとは思わなかった。

「あいかわらず、汚いわね」

女だけの部活なのに、どうしてこんなに片付かないのかしら。わたしは、薄暗い部室を見回しながら、冷静を装う。彼女を直視できない。

「あはは、せんぱいたちがいなくなってから、片付ける人いなくて」
「あなたが片付けたら?」
「そうしたいんですけど、2年の先輩の私物勝手に動かすわけにもいかないし」

パンネロはのんきに笑っている。この子と会うのは、数ヶ月ぶりだった。



 わたしは夏、県大会で敗退して部活を引退した。勝負を分けたのは、わずかなタイミングのずれだった。その一瞬で、わたしたちの今までの努力が泡になって消えた。みんな泣いていた。悔しくて泣いていた。悲しくて。でもわたしは泣かなかった。ただ呆然と立ちつくしていた。まるで現実が受け入れられなかったのだ。動けないわたしの肩を、仲間のひとりが泣きながらひっぱって、そのままやっと会場から出られた。会場から出て、太陽の光に照らされた途端、急に自分が負けたことを実感した。そこでやっと。
 悔しかった。リベンジをしたいと思った。でも、それはもう、わたしが抱くには遅すぎる思いで、一生叶わぬ夢だった。結局わたしたちに待っていたのは、受け入れがたい引退という現実。

「絶対、来年は優勝してね」

引退式の日、わたしたちの代の部長が、後輩たちに言っていた。でもわたしは、彼女たちにリベンジを果たされても全く嬉しくないし、そもそも、彼女たちにできるとは思わなかった。わたしたちの代が、この高校の歴代でも最も優れた人材が集まっていたのだ。その中には自分も入っている。それなりの実力は自負していた。それでも負けた。

「せんぱい、あたし、ぜったいせんぱいのかたきとります」

引退式が終わり、ぱらぱらとみな散っていく頃合、パンネロがわたしの前で泣いた。せんぱいたちは、もっと上にいけたのに、あたしたちが足をひっぱったから。パンネロは隠そうともせず泣いた。まるでわたしの代わりをしてくれているように。
 パンネロは、あたしたちのせいで、と言った。でも違った。わたしは、最初っから後輩たちを信じてはいなかった。相手にもしていなかった。信用していたのは、同じ年に入部した仲間たちだけだった。だから、パンネロの言葉は間違っていると思った。

「あなたたちのせいじゃない」
「せんぱい、ごめんなさい」

謝るのはわたしのほうだった。



「どうしたんですか、突然」
「…ちょっと、気分転換にね。勉強ばかりじゃ、腐っちゃうから」
「受験勉強ですか?お疲れさまです」

パンネロはまた笑った。彼女が笑うたび、わたしの心臓が跳ねる。まぶしいのだ。

「あなたこそ、ひとりでなにしてるの、今日は部活ないんでしょ」
「実は、部室に忘れ物しちゃって」

パンネロは床に積まれた教科書の束を目で示す。わたしはため息をついた。

「…部室に教科書類おいちゃだめなの、知ってるでしょ」

軽く諌めるように言うと、パンネロは、せんぱいだって昔おいてたじゃないですか、とからかうように舌を出した。



 引退式のあの日から、パンネロはわたしの中で特別になった。なってしまった。部活を引退してからほとんど会わないのに、廊下で見つけると自然と目で追っていた。まだ現役だったときにパンネロと交わした会話を、たいして多くしゃべった記憶はないが、他の後輩と比べると格段に多かったパンネロとの会話を、覚えているかぎり無意識のうちに何度も何度も頭の中で反芻していた。パンネロが、今、他の誰かと話しているかもしれない、他の誰かに笑顔を向けているかもしれない、他の誰かのために涙を流しているかもしれないと思うと、体中の血が沸騰するかと思うほど、体温が高まった。黒いなにかが、胸の奥底から這い出してこようとするのだ。病気だ、病気のようだ、と思う。…いや違う、これは、まるで。
 わたしは今、パンネロの言葉を信じている。彼女に期待している。全く興味のなかった後輩の中のひとりに。あたし、ぜったいせんぱいのかたきとります。彼女の涙でかすれたか細い声を、恐ろしいほど胸の中で大切にしている。



 言葉が途切れた。薄暗い室内が、さらに薄暗く見える。パンネロは、そっと、ちいさな四角い窓から、せまい景色をのぞいている。その横顔が、まるでわたしが昔から望んでいたもののように見えた。

「…あなた今、つきあってる人とかいるの?」

無意識に訊ねた。わたしは言ってからはっとして、口元を押さえた。パンネロは、えっ、という顔で目をぱちぱちとさせた。

「そ、そんなのいませんよー」

すこし顔を赤くして、パンネロはうつむく。なんとなく、嫌な気分になる。

「せんぱいはどうなんですかー?」

それに全く気づかないパンネロは、好奇の目をわたしに向ける。

「わたしは…」

口を開き、なにを言おうとしたのか自分でわからなくて狼狽した。なんですかなんですか?と嬉しそうにパンネロが目を輝かせている。色恋の話題は、女同士の会話の題材にするにはあつらえむきだった。途切れた会話を回復させるのにはぴったりだった。それでもわたしは、この話題を無意識にでもふってしまったことを悔やんだ。この話題が、わたしを不機嫌にするのは目に見えていたのに。

「残念、そんな期待した目で見られても、おもしろい話なんてないわよ」
「えー、ほんとですか?今絶対なにかある顔でしたよ?」
「なにもないわよ」

あっても、言えるはずない。再度、自分の過失に内心ため息をつく。しかし、どうせならこの流れで、もうすこし探りを入れてやろうと開き直ることにした。

「じゃあ、すきなひとは?」
「すきなひとですか?んー…ねえ、せんぱい、ひとつ訊いていいですか?」

急にパンネロが神妙な顔を作る。すこし緊張した。

「なに?」

冷静を取り繕って話の先を促す。パンネロはすこし間をおいて、あの、と言った。

「…すきって、どんな気持ちなんですか?」
「え?」

思いがけない問いに、わたしは瞬きをした。

「どんな気持ちって…」
「あたし、みんなすきです。せんぱいがすき、部活のみんながすき、ヴァンがすき。いっぱいすきだけど、でも、つきあうときって、その人だけがすきじゃないといけないんですよね。あたし、その辺がよくわかんなくて」

心底わからないというふうにパンネロは首をかしげた。わたしは、なぜそこで急に彼女の幼なじみの名前が出てくるのかかなり気になったが、むしろむかついたが、あえてそこにはふれないことにする。

「つきあうっていうのも、なんなのかわかんないです。例えば、今こうしてるのだって、あたしはすきなせんぱいとふたりでいっしょにいるんですよね」

すきなせんぱい、という言葉に心臓が痛いほど鳴る。パンネロは真面目に言葉をつづける。

「だったら、これだってデートってことになるんじゃないんですか?」

じ、と目を見ながら言われて、胸がきゅ、と痛んだ。まるで、誘惑されている気になる。

「……こんなの、デートじゃないわよ、すきなもの同士がいっしょにいるのがつきあうってことなんでしょ?」
「あ、せんぱいあたしのことすきじゃないってことですかそれ?」

わざとらしく傷ついたようにパンネロが顔をしかめた。わたしは、どうしようもない気持ちになった。

「…じゃあ、わたしたちつきあう?」
「え?」

どうしようもなかったのだ。わたしは、ゆっくりとパンネロに近づいた。パンネロは、わたしが急に真面目な顔になったものだから、驚いてあとずさった。パンネロの腕がせまい部室のちいさな窓の桟にあたる。追いつめて、わたしは手を伸ばしてカーテンを閉め、その手でパンネロの顔の横のカーテンを押さえた。カーテンのごわついた感触が手に広がる。

「せんぱい?」

パンネロが、きょとんとした顔でわたしを見上げている。なにも気づいてないのだ、彼女は。

「あなたが言ったのよ、わたしを、すきなせんぱいって」
「あ…」

カーテンを押さえていた手を動かして、パンネロの首筋にはわせる。パンネロは震えた。

「せんぱ…冗談ですよね」

わずかに焦りがにじみ出た声。これ以上はやばいのはわかっていた。でも止まらない。

「冗談じゃないわ、わたしは、昔からあなたがすきだったのよ。たまらなくなるくらい。あなたも言ったわ、わたしをすきだって。それで、つきあう条件は満たされたじゃない」

耳元で囁く。

「それは、そうだけど…。せんぱい、ふざけてるんでしょ、やだなもう。よけてください」

冗談にしようと、この場をごまかそうと、パンネロはうつむいてかわいた声でちいさく笑い、わたしを押しのけようとする。いらいらした。

「ふざけてないわ」

強く言った。すると、わたしの視線をさけるようにさがっていた顔が、はじかれたように上を向く。その瞬間見えた彼女の目には、これ以上ないほどの拒絶の色が刻まれていた。まだごまかすことをあきらめず、震えたように笑う彼女のうそくさい表情の中で、そのふたつの目だけが本物で、くっきりと浮いて見えた。まるで、受け入れがたい、受け入れたくない現実に直面したような。きっと、夏のあの日のわたしの目も、こんな鋭い色をうつしていたのだろう。急に、すべてが終わった気がした。


「……冗談よ、そんな恐い顔しないで」

ぎりぎりでそれだけ言い、わたしはパンネロから離れた。途端、パンネロは部室の床に座り込む。

「び、びっくりした。せんぱい、演技上手」

あはは、と飾り気のない安堵の笑いを浮かべ、パンネロは、腰が抜けた、とわたしに手を差し出す。起こせと言っているらしい。よくもまあ、さっき襲おうとした人間にそのように甘えられるものだ。わたしは、パンネロの無防備さに恐怖を感じ、もしここでふれたら本当にどうしようもなくなりそうだと思い、自分で立ちなさいと冷たく言った。

「…これでわかったでしょ、あなたのわたしへのすきは、つきあうにはつながらないすきなのよ」

言いながら、自分の顔が歪んでいくのがわかる。だから、パンネロからは顔をそらした。

「だからあなたは、さっきみたいなことされてもいいと思えるすきを探しなさい」
「せんぱい、もしかしてそれ教えてくれるために、さっきみたいなことしたんですか?」

パンネロが、見当違いの結論を出した。わたしは、もうなにも言えなかった。それを肯定ととったのか、パンネロは嬉しそうに笑った。


「もう行くわ、勉強もしなくちゃいけないし。部室、片付けるのよ」
「はい、せんぱいもがんばってください」

パンネロが、背を向けようとするわたしに笑って頭を下げた。わたしはまた、それに心臓を刺激される。もう振り返らないで、部室のドアを閉めた。ばかだ、ばかだ、わたしは、おおばかものだ。わかっていたのに。彼女は女で、わたしも女で、それでわたしがなりたいようになるはずなんて、なかったのに。
 視界が歪んだ。なぜかわからなくて、でもしばらくして涙のせいだとわかった。わたしは泣いた。声をあげず。誰もいない学校のグラウンドの隅で、茶色の地面が幾粒もの色濃い丸を作るのを見つめた。わたしがこんなに泣けるなんて、知らなかった。悔しくても悲しくても、泣けなかったのに。泣くことがこんなにつらいことなんて、知らなかった。知りたくなかった、失恋がこんなにつらいことだったなんて。
 わたしは泣いた。夏のあの日のように、わたしの代わりに泣いてくれるパンネロがいない今は、わたしが泣くしかなかった。




end






粉コロモさんに捧げたぶつ 気に入ってたのでうちにも掲載

07/01/-- 同型接合体