愛してるなんて言ってやんねえ
短い、連続した電子音に起こされた。パンネロはもぞもぞとふとんの中から腕を伸ばし、指先に見つけた目覚まし時計のスイッチを押す。そのままがばっと勢いをつけて体を起こし、無理矢理に頭を覚醒させた。まだ眠い目をこすり、ひとつあくびをして立ち上がった。
顔を洗い、身支度を整える。時計を見ると、まだすこし余裕があった。冷蔵庫を開けてみたが、残り物もなにもない。パンネロはすこし顔をしかめて、冷蔵庫の横の棚から菓子パンをひとつ取り出した。それを頬張りながら、盛大に散らかった室内を眺める。はあ、とため息をつき、まだ寝床にはりついているこの部屋を好き勝手に散らかしてくれた張本人に声をかける。
「フラン、あたしもう行くから。お腹減ったら、いつものところにパンがあるからね」
ちょっと揺すると、シーツにくるまっていたフランがうめきながら顔の目から上の半分だけを出した。
「行くって…ばかね、今日は日曜だから学校になんて行かなくていいのよ…」
寝ぼけた声で言い、パンネロの腕をつかんで引き寄せた。
「わっ」
パンネロはバランスを崩してフランの上に倒れこむ。そのまま抱きしめようとしてくる腕を軽く払い、フランから体を離した。
「学校じゃないの。バイトに行くの。今日はは朝からバイトはいってるって前から言ってあったでしょ」
「そんなの、行かなくてもいいわよ」
「フラン…」
まだふとんの中に引っ張り込もうとするフランに、パンネロは呆れたため息をつく。
「あたしがバイトに行かなかったら、家賃払えなくて一緒に暮らせなくなっちゃうよ」
それでもいいの、とでも言うように、パンネロは我が家に棲みつく寄生虫の如き居候を見おろす。途端、フランはパンネロの手首をつかんでいた手を惜しそうながらも放した。彼女には、この手の脅しがいちばん効果的なのだ。
「じゃあ、いってきます。部屋、ちゃんと片付けといてね」
パンネロが玄関から言う。しかし拗ねたフランはまた蒲団にもぐりこんで無視を決め込んでいる。元から返事は期待していなかったので、パンネロはがちゃ、と思いドアを閉めた。
腕時計の針は、いつの間にか存外進んでいた。パンネロはやばいと呟き、駆け出す。彼女のせいで、朝から疲れるばかりである。
「絶対、いつか追い出してやる…」
走りながら、フランがパンネロのところに転がり込んでから呟かれない日がなかった言葉を、パンネロは今日も呟いた。
「すみません、遅くなりましたー」
パンネロは、花屋の裏にある事務所に顔を出して、ぺこりと頭を下げた。デスクに向かっていた、花屋のロゴが入ったエプロン姿の人の良さそうな男が振り向く。
「ああ、おはよう。大丈夫、まだ全然遅刻じゃないよ」
「おはようございます店長。いやいや!あたしはバイトの身なんだから十分前には準備してないと!」
店長、と呼ばれた中年の男の柔らかい笑顔につられて、パンネロも微笑んだ。ほんとに店長ったら癒し系なんだから。
「さっそくで悪いんだが、もう今日の分仕入れてきてあるから、店に並べてくれないか。花はいつものところにつんであるから」
「はい、わかりました」
パンネロは自分も店長と同じエプロンをして、店の前に回った。慣れた手つきでシャッターを開けて、店の奥につまれている花を、パンネロの満足いくように軒先に並べていく。色とりどりのさまざまな種類の花が店先を彩る。
「―よしっ」
並べ終わり、腕時計を見ると、ちょうど開店時間の9時ジャストだった。
この花屋は、ちいさな商店街の中程に位置している。このご時世だから決して繁盛しているとは言いがたいが、それでも店を経営する夫婦が食べていくのに充分な稼ぎはあった。
「お、もう準備終わっちゃったか」
店の奥から、店の主が顔を出す。
「手伝おうと思ったんだが。君がいれば、おれなんていなくていいなあ」
店長は頭をかいて、仕事熱心なバイトの少女に笑いながら肩をすくめて見せた。
「なに言ってるんですか、店長がいなかったら、この店の会計誰がやるんですか。あたしにそんなことさせたら、この店破産しちゃいますよ、あたし数学パアなんだから」
あ、でもその辺は奥さんがいれば大丈夫か、とパンネロが冗談めかして笑うと、店長は、おいおい、本当におれを追い出す気か、と笑いながら、でもすこし真面目に言った。
「ありがとうございましたー」
パンネロはぺこりと頭を下げて、営業スマイルで客を見送った。ふう、とため息をついて首を回したら、こき、と音がして、すこし疲れている気になった。確かに、最近働きづめなのだ。平日は学校の後もずっとバイトだし、休日も今日のようにバイト三昧。ちょっとくらいゆっくり休みたいのが本音である。まったく、これと言うのもあいつのせいだ、とパンネロが心中舌打ちをしたとき、店先に人の気配を感じた。
「いらっしゃいま…」
振り返り、反射的に声を出した。が、そこにいた人物を見てパンネロの動きが止まる。
「これ、とあとこれも頂ける?」
フランだった。かたまるパンネロにかまわず、目星をつけた花を指さす。やっとパンネロは我に返った。
「ちょ、なにしてんの」
「なにって、お花を買いに来たのよ。あなたの部屋、なんだか質素なんだもの」
「質素って…」
「だからお花でも飾ってあげようかと思って」
しれっと言うフランに、パンネロは唇の端を引きつらせた。
「…花を飾る前に、あの散らかった部屋は片付けてくれたの?」
「それはあなたの仕事かなあと思って」
首を傾げながらさも当然のように言われて、パンネロはぴき、と額に青筋を立てた。
「フランが散らかしたんだから、フランが片付けるの!」
叫びたかったが、ここはバイト先である。怒りを抑えて小声で言う。
「だいたい、花買うお金なんてどこから持ってきたの、またあたしの生活費に手出したのねっ」
フランは、ふいと目線をそらして瞬きをした。彼女が図星を指されたときの仕草だ。しかしそれから反省の色はうかがえない。パンネロは脱力して、盛大なため息をつき、額を掌で押さえた。
「…頭痛い」
「あら、大丈夫?もう帰ったほうがいいんじゃない?」
心配するように覗き込んでくるフランに、あなたのせいよ、と言いたかったが、言ったら言ったで余計頭が痛くなる気がしたのでやめた。
「大丈夫だから。フランが帰れば治るから。帰って部屋の片付けでもしててっ」
パンネロを連れて帰りたそうなフランの背中を押し、なんとか店から追い出す。しかしフランは、なおも店の外からパンネロを見つめている。パンネロはうんざりといったように肩を下げている。しばらくして、やっとパンネロがもう自分をかまう気がないとわかったのか、つまらなそうに眉を寄せて、帰っていった。パンネロは、どっと疲れが襲ってきた気がした。
「ただいまあ…」
パンネロは、妙に重く感じる玄関のドアを開く。ああ、疲れた。やっと我が家である。しかし、きっとまだ仕事は残っているのだ。パンネロは休まるときのなさに、もう死にたくなった。しかし、ゆっくりと部屋の襖を開けると、意外な情景が目に入った。
「…片付いてる」
あの散らかっていた朝のようすとは全く違う。きれいに整頓され片付いているのだ。まさか、まさか本当に片付けているとは思わなかった。パンネロは、感動のあまり涙目になる。
「あら、おかえりなさい」
「フラン…」
思わず部屋の置くから出てきたフランに抱きつく。
「パンネロ?」
突然のことに驚き、しかし嬉しそうにフランを目を見開く。どさくさにまぎれて、自分も抱き返してみた。
「フラン…やっと片付けれる子になったんだね…」
「当然よ、あなたに頼まれたんだから」
「フラン…」
もはや涙声である。なんというか、初めて赤ちゃんが歩く瞬間を見るときは、きっとこんな気持ちなんだろう、とパンネロは思った。が、次の瞬間嫌なことに気づく。
「…お酒臭い」
「え?」
がばっとフランから離れる。
「フラン…また勝手にお酒買ったのね!?」
「……」
フランは先程と同じように目をそらす。部屋を片付けたのは、それからくる罪悪感からだったのだ。パンネロは沸きあがる怒気を自覚した。ここは花屋の店先ではない、もう存分に説教してやれる。
「フラン!!」
怒鳴り声に、フランはすこし身をこわばらせる。
「勝手にお金使っちゃだめって言ってるでしょ!?あれはあたしの生活費なの!あれがないとあたし生活できないの!」
「だって…あなたがいなくてひまだったのよ」
「フランがそんなふうにむだづかいするから何個もバイト掛け持ちしなくちゃならないんだもん、当然でしょ!フランのばか!!ちょっとでもフランが改心してくれたんだって喜んでばかみたい、もう、フランなんて知らない!!」
ばか!と捨て台詞のように吐き捨て、パンネロはそれだけは敷きっぱなしだった蒲団にくるまって、外界からの接触はシャットアウトだと言わんばかりに黙った。
「ぱ、パンネロ?」
フランが焦って声をかけても、もちろん無視である。フランはそこでやっと、自分がやったことの重大さに気づいたのであった。
次の日の朝は最悪だった。目覚ましをセットし忘れて見事寝坊したのだ。ああもういやんなる、とパンネロは半泣きになりながら学校の準備をする。ふと、目の端にまだ寝ているフランがうつる。部屋の中の、パンネロが寝ていた場所と対角のところで、畳の上で毛布にくるまって寝ている。パンネロは、畳の上で寝かせて、ちょっと可哀相だったかな、と思ったが、すぐに、悪いのはフランだもん、と思い直す。それに。
「…あたしと一緒じゃないと寝れないって言ってたくせに、全然寝てるじゃん」
昔言われたことを思い出す。同じ蒲団で寝たがるフランを嫌がるふりはしていたが、本当はそんなに悪い気はしていなかった。
「フランの、ばか」
未だ眠っているフランにちいさく言い捨て、パンネロは学校に向かった。
学校が終わり、バイトに行く前に一度アパートに寄った。ドアノブをまわすと、鍵がかかっていて驚いた。
「…フラン?いないの?」
鍵を開けて、声をかける。しかし薄暗い部屋の中から返事はない。なんとなく、いやな予感がした。
「出てっちゃったの?」
そこにはいないフランに訊ねる。ちょうどいい、出て行ってほしかったのだ。いい加減、フランの常識のなさには呆れていたのだから。なのに。
「なんで、勝手に…」
なぜこんなに、さみしいのだろう。
重い足で、花屋に向かった。すこし遅刻してしまった。店長に、ごめんなさい、と謝ると、珍しいね、と笑ってくれた。いつもは癒される店長の笑顔も、今日は幾分効果が薄い気がした。なんとなく店長に申し訳ない気分になった。
ぼおっとしたまま、いつの間にか閉店の時間だった。商店街が、朱色の夕日に染まっている。ほとんど商品が売れてしまった花屋の店先は、とてもさみしく感じられた。いなくなってから大切さに気づくって、こんな感じなのかな。知りたくなかったな、こんな感覚。
「あ、あの」
突然声をかけられて、我に返る。振り向くと、店先に男の子が立っていた。
「ごめんなさい、今日はもう閉店で…」
「あ、いや、そうじゃなくて」
パンネロが店先に出ながら申し訳なさそうに言うと、パンネロと同じかすこし下くらいの年齢の少年が首を振った。よく見れば、けっこうよく花を買いに来てくれる少年だった。
「じゃあ、なんですか?」
「え、ええっと、その…」
少年はうつむく。その頬は朱色に染まっている。それが、夕焼けのせいだけでないのはパンネロもわかった。もしかして、とパンネロも赤くなる。このシチュエーションは、まさしく…。
「あ、あの、ぼくと付き合ってくれませんか!?」
「えっ…」
想像通りの言葉に、パンネロの頬はさらに赤くなる。
「あ、急にこんなこと言って気持ち悪いと思うんですけど、ずっと前からあなたのこと見てて、それで、ずっと、いいなあって思ってて…」
明らかに緊張している声に、パンネロもつられて緊張する。
「あ…えっと、いつもお花買いに来てくれてますよね」
「あ、は、はい!覚えててくれたんですか?」
がばっと嬉しそうに少年が顔をあげる。しかしパンネロと目が合うと、顔を真っ赤にしてすぐにまたうつむいてしまった。
「…今、付き合ってる人とかっていますか?」
「え…」
付き合ってる人。そう言われて真っ先に思い浮かんだのは。
「…い、いない!いないです!」
それを振り切るように手と首を振る。そもそも、彼女とはそんな関係ではない。勝手に部屋に居つかれていただけなのだ。…それに、今はもう。
「あ、あの、どうしたんですか?」
ついうつむいてしまったパンネロに、少年が心配そうに声をかける。はっとして、なんでもない、と言おうとしたとき、ずし、と肩になにかが乗った。
「パンネロ、今日の夕飯はなに?」
その声は。
「ふ、フラン!?」
フランだ。パンネロを後ろから抱きこみ、耳元に顔を寄せている。熱い息が耳にかかり、思わず目を閉じる。
「で、出てったんじゃなかったの?」
うわずった声で聞くと、フランは首をかしげる。
「なんの話?そんなことより今日の夕飯…」
「あ、あの!」
はっとしてパンネロは少年を見直す。フランは、横目で流し見る。
「誰ですか…?」
最もな疑問である。勇気をふりしぼった告白に割り込んできた謎の人物が誰か気にならない人間なんていない。
「あ、あの、この人は…」
自分がこの後なんと説明しようとしたのかは自分でもわからない。なぜなら、少年にフランを紹介する前に、急にフランに顎を取られ、フランのほうを無理矢理向かされ、なんと、唇を奪われてしまったのだ。かたまる少年。
かたまるパンネロ。横目で少年を威嚇したままのフラン。
「……っ」
少年は勢いよく踵を返し駆け出した。彼の目には敗北の涙が浮かんでおり、それにやっと満足したフランは唇を離した。依然パンネロを腕の中に抱きながら、勝ち誇った笑みを浮かべている。が、パンネロはもう少年どころではない。
「んなっ…なっなにを…」
「え?なあに?」
「き、キス…っ」
真っ赤になりながら、なんとかそれだけ言う。フランは、すこし眉を下げた。
「嫌だった?」
「え、いや、その、嫌では…」
なかったのだ。全然。むしろ。
「う、嬉しかった、かも…?」
そう。嬉しかったのだ。その自分の感覚に驚いて、思わず素直な感想を言ってしまう。
「そう、ならよかったわ。で、今日の夕飯はなに?」
パンネロ的にはなかなか問題発言だったのだが、フランは気にするでもなく先程と同じ質問を繰り返す。
「え、えっと、まだ決めてないけど…」
それにつられてパンネロも普通に返してしまった。
「そう、じゃあ、一緒にスーパーに行って買い物しましょう。この時間ならもう割引始まってるわ」
「え、うん」
「バイト、もう終わるんでしょ。ここで待ってるから」
「あ、う、うん」
いつになく内容のあることをしゃべるフランに気圧され、パンネロは帰る準備をしに店内に消えた。
「あの…フラン」
「なあに?」
スーパーへ向かう途中、おずおずとパンネロがフランに訊ねた。今日のフランはいつもと違う。なんとなく、緊張した。
「あたしのバイト先にくる前、どこいってたの?アパート行ったらいなくて…」
心配しちゃったじゃん、出てったのかと思って。と最後のほうは口には出さずに心の中だけに留めておいた。
「ああ、バイト探しに行ってたのよ」
「あー、バイトか。はいはいバイトね…て、フランがバイト!?」
さらっと軽く言われて、パンネロも流しそうになった。いや流せる内容じゃないでしょ自分。パンネロは混乱のあまり自分で自分に突っ込んだ。
「あら、おかしい?」
「や、おかしいっていうか…」
いやおかしいのだ。あの面倒くさがりのフランが、趣味は家でごろごろしながら読書のフランが、今まで幾らお金がないと言っても気にすらしてくれなかったフランが、すきなだけむだづかいしても全く悪びれなかった、あのフランが!
「な、なんで急に?」
驚きのあまりいささか声を裏返して訊ねると、フランは、申し訳なさそうにうつむいた。
「…だって、昨日あなたに怒られたから」
「え…」
「あなたがそんなに大変な思いしてたって知らなくて、…ごめんね」
ひたすら申し訳なさそうなフランに、パンネロは混乱した。こんなフランを見るのは初めてなのだ。
「…いいよ、フランが反省してくれたなら」
今までのことは水に流そうじゃない。フランと付き合うには、それっくらいの心の広さが必要なのだ。パンネロが笑うと、フランもやっと微笑んだ。
「どこのバイトなの?」
「駅前のコンビニ」
「ふーん…」
「ねえ」
「なに?」
「私がバイトすれば、そのぶん一緒にいられるんでしょ?」
「え…」
確かに、フランがバイトをしてくれれば、パンネロはバイトの数が減らせて時間のゆとりもできるのだ。もしかして、バイト始めたいちばんの理由ってそれ?思わず、嬉しさのあまり唇の端が上がる。
「…フランの、がんばり次第」
うつむきながら、照れ隠しにそう言ってみる。
「そう、じゃあがんばらなくちゃ」
それに本気で意気込むフランが、たまらなくいとしいのだ。
「パンネロ」
「ん?」
「…愛してるわよ」
思わず赤面。そんな恥ずかしいことをよくもまあ平然と言えるものだ。思わずうつむく。しかし、自分もそれと同じ気持ちだということは、もう自覚していた。
「……あたしもだよ」
まだ、言葉にはできないけど、そのうちね。
その後、晩ご飯のメニューを決めながら一緒に歩いた夕焼けの帰り道は、とても楽しかった。
ちなみに、フランのバイト代はすべてフランの娯楽に費やされたため、結局パンネロの忙しさは変わらないのであった。
「全然反省してないじゃん、フランのばかあ!」
おしまい
おまけ
パンネロが妙にツンデレなんですがとりあえずこのシリーズのテーマは「フランにだけツンデレなパンネロ」にしようといま決めました
07/04/21 再アップ